ESP科学研究所所属米子中央指導所
有限会社イー・エス・ピー米子
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天啓によって石井先生にパワーが宿り、それが開花したのは、石井普雄という人が即断即決の人だったということと深いかかわりがあったのだと思います。
石井先生は自著の中で、次のように記しています。 「私は高等小学校しか出ていないから、いわゆる学問がない。それに家が貧しかった。だから、何でもスグにやらなければ暮らしを成り立たせる事が出来なかった。良くも悪くも手当たり次第だった。失敗もあった。でも、その日暮らしのやり方でも、何とか自分なりの人生を開くことはできた。ひらめきを大切にしたからだ。とかく人は『ああしてはいけない。こうしてはいけない。」と自分を押さえ込もうとする。教育のある人ほどそうだ。もちろん、社会生活をしていく上で、他人に迷惑を掛けないように配慮することは大切だ。でも、自分のこととなれば問題は別になる。まず、迷わないことだ。誰でも一日のうち幾度か、『ああしよう、こうしよう』というような直感がスッと頭に閃くはずだ。この直感を私は大切にする。直感は神の声だ」
こうした直感は、本来、だれにもあります。ただ、多くの人は、それをそのまま行動に移そうとはしません。
みんな小さいころから「よく考えてから行動しなさい」という教育を受けているからです。
石井先生は、自著『最後の超念力第一弾』のなかでこのようにも言われています。
「よく講演会などで、先生はどうしてそんなパワーを持つようになれたのか、という質問をうける。もちろん確かな答えなど、わたしのなかにあるはずもない。わたしは凡人だ。
先祖に偉い人物がいたわけではない。先祖のことなど考えたこともない、平凡な人間だ。
ただ、もし、わたしが昭和五十年二月の不可思議な体験を経て超念力者になったルーツを、あえてわたしの周囲に探れば、それは発想即行動のわたしの生き方にある、といえるかもしれない」
(心の架橋、最後の超念力第一弾より)
昭和50年の2月のことだった。突然不可思議な体験がわたしを襲った。
その頃のわたしは殖産住宅の大阪支店に勤める平凡なサラリーマンだった。人並みの苦労をして、人並みの平安を得た定年まぢかの営業マン、と言っていいだろう。しごとはいそがしかったが、それなりに幸福だった。定年後は郷里の佐賀へ戻ってゆっくりくらそうと思っていた。
ところが、2月1日の夜、フロに入ったら突然体がカーッ、と熱くなった。
血圧が高かったから、もしかしたら倒れるんじゃないかなと心配した。とにかくからだが熱くなって、グングン膨れてゆく。あわててわたしはフロから出た。それまで病気というのをしたことがなかったから、もしかしたら、という心配があった。
それでフトンを敷いて、からだをすぐ横にした。
それからどれくらい時間が経ったのか、はっきりしないのだが、少しウトウトして目を醒ますと、左手がひとりでに持ちあがって宙に字を書き始めた。
意識ははっきりしているのだが、からだは硬直して動かない。ただ指先が字を書いてゆく。
〈ヨガキ、ヨガキ・・・・〉。
それが、宙に浮いた文字だった。
わたしにはなんのことかわからない。エライことになったという驚きばかりが先行して、ただ暗い部屋で息をひそめていた。
するとそのうち、指先の動きが変わって、〈タスケ、タスケ・・・・〉、になった。
そのときようやく、わたしは、もしかすると神が人助けをしろ、とわたしに啓示を与えているのではないか、と気付いた。証拠はなかったが、そうだろうという確信がわたしのなかにはあった。
直感、だ。
わたしはその自分の直感に素直になろうと思った。
それからわたしに不思議なパワーがそなわるようになった。だからいまでも、これはわたしの力ではない、と思っている。
(最後の超念力より)
八次元パワーの正体はいったい何か・・・。わたしにもはっきりしたことはわからない。ただ宇宙のエネルギーのひとつだろうと思う。神の啓示、と言ったが、わたしはほんらい神仏は信じない。ただ宇宙のエネルギーと言っても漠然としてよくわからないから、神の力、と言いかえただけだ。
わたしの力を八次元と言ったのは、大阪大学工学部の政木和三先生だった。わたしのことが評判になって、大阪の読売テレビが超能力の特集番組を放送することになった。わたしも出演した。
そのとき控室で、政木先生がわたしをひと目みるなり、あなたの力は七次元だ、と言われた。
七次元の力はとても人間のものとは考えられない。それでも政木先生は、わたしの力を七次元、と言われた。
それがキッカケ__。そのあと力がパワーアップしていまは自分なりに八次元の力を持っていると確信している。
フランスのルルド―やスペインのファティマには、"奇跡の泉〟があると本で読んだ。ルルド―はヨーロッパ最大のカトリック聖堂のある土地だ。そこの泉の水を飲むと、足が悪くて歩けなかった人も歩くことができるようになり、目の不自由な人の視力が回復したりする。
まさに奇跡だ。
その効能のいわれについて、水にミネラルが入っているからとか、祈ることで心と体のコミュニケーションがはかれるから、とかの説明を聞いたことがある。念力(ESP)が人間の心とからだのコミュニケーションをはかるうえで、大きな力を発揮することはまちがいない。だが、わたしの八次元パワーは、ミネラルもなければ、祈ることもしない。しかし確実に奇跡をおこしている。
だからわたしは、わたしの力を八次元パワーだと考えるのだ。
(最後の超念力より)
いまではわたしの力を信じてくれている人はかなりの数になるが、わたしの力も最初からたくさんの人に信用してもらえたわけではない。
「退職しなさい」という言葉が閃いて殖産住宅を退職したあと、私は郷里の佐賀へ戻って治療所を開いた。「石井診癒所」という名前だった。医療とか治療とかの言葉が使えないために、そうしたのだ。
一年ぐらいは患者さんがあった。ところがその後少なくなってしまった。半信半疑だったのだと思う。
◇
だが、私は自分の力を信じている限り、後へは引けない。
新聞にチラシを入れても効果がなかった。それで実演以外に、たくさんの人々にわたしの力を理解してもらう方法はないと思った。そしてわたしは、一般の人の前でわたしの力を実証しようと決めたのだ。いわば一般公開だ。
場所は九州の久留米市民会館の小ホールを借りた。名付けて「大超能力一般公開」。期間は三日間。午前九時から午後五時までみっちりやった。
フタをあける前は人が集まるかどうか心配だったが、いざ幕をあけてみると午前十時には満員になった。
みんなからだに苦痛を持った人たちだ。ワラにもすがりたい気持ちでわたしのところへ来たのだと思う。
この時はわたしも、精いっぱいの力を出そうと頑張った。来場者全部の人に本当に来て良かったという満足感と安心感を与えなければならないのだ。それが出来たのである。会場に来た人の六〇パーセントは念力を一回かけるだけで良くなり、残りの人も三日間でなんとか改善することができた。
効験にはわたし自身も驚いたが、これは神の力であってわたしの力ではないのだ、と思うと、その効験も納得できた。良くなるのはあたりまえなのだ。
そしてわたしの力は、これを機会に強力になった。と、同時に大きくスタートし始めたのだ。
わたしがわたしの力をたくさんの人たちにわけ与えるためには、わたし一人の力ではどうにもならない。そのためには一つの組織を作らねばならなかった。本当は財団法人にしたいのだが、宗教団体でも心霊治療団体でもなかったので、なかなか許可の手続きがおりないというので仕方がない。株式会社で設立した。
株式会社で人助けをしているわけだ。こんな会社が一体どこにあるだろうか。だが、組織の形はどうであれ、私の力に変わりはない。トコトンまでやろうと歩き始めた。
そうやって東京にESP開発研究所(現ESP科学研究所)を設立したのは、昭和五十六年四月のことだった。
(最後の超念力より)
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